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一個の月 [O.Y]




小川さんの 『 博士の本棚 』 より。


━ p.330 響きに耳を澄ませる


本棚から、本を いくつか選んでみても、どれも「今じゃ ないんだよなぁ…」
と また戻す。

ぼんやりと、小川さんの書評本を捲っていて、『 アンネの日記 』について
書かれていたものを 読んだ。『 アンネの日記』は、小川さんの 書くことへの
原点にも 位置づけられているような、とても重要な本 ということが、しばし
伝わってくる。

たとえ言葉など通じなくても、相手が死者であっても、人は心を通わせ、二人だけの秘密を共有できる。その喜びを、アンネ・フランクは私に教えてくれる。

(その 話題から、絆 について 語られてゆく)

声高なかんじで、絆 という 言葉を、よく 耳にするようになり、その言葉を
否定する気は ないけれども、なんだか ランヨウされて、都合のいいものに
されていやしないかい…と 思う時がある。

分かりやすく 存在している、家族や人々を 繋げて、絆だなんだと 言って
いるようにしか、感じられない時もある。(私も、家の人への 感謝の想いは
十分にあるので 矛盾になってしまうが…)

相反するように、日々流れるニュースは、凄惨なこと ばっかりで、どうせ
そっちが本質なんだろよと、錯覚(いや事実?)を 起こすくらいに、もう
うんざりしてしまうから、「絆ってさぁ 何だよっ」と 思ってしまったのだろうか。

それとは別に、今、近しい人々に 絆を 感じられない方にとったら、逆に
傷つくような響き だったりもするのかもしれない…と、ふと 想像もした。

(前述にもどると) そういう風潮を 漠然と感じていたからなのか、単に 私に
孤独癖があるからなのか、小川さんの 下記の言葉が すっと心に入ってきた。

人が自分の生きている世界と 何かしらの絆を結ぼうとした時、必ずしも 感情をぶつけ合って妥協点を探したり、人格をさらけ出して互いのすべてを 分かり合おうとしたりする必要はないのかもしれない。

例えば、たった一冊の本、一つの歌、一枚の絵、一個の星、そういうものの前で心を震わせる瞬間にも、強い絆は築かれている。心の震えは自分一人のところにとどまるものではなく、遠いどこかの誰かにも響いてゆく。

その響きに耳を澄ませる時、自分が目に見えない、偉大で心地よい世界によって守られているのを感じ取れる。


この文と 出逢い、じわっと 涙がでて、しんみりと 穏やかな気もちになった。

そういえば、夜空を見上げたら、半月の おぼろ月がでていた。

春の到来をつげる標に、桜の開花ばかりに 注目があつまっていますが
おぼろ月は、春の季語ですもんね。

小雨が 降ったあとで、空気中の塵がなくなり くっきりと澄んで、街の光が
きらきらと見えるのに、空にかかる月は、ぼんやりと霞んでいた。

ああ、ほんとうに 春が近づいているのだなぁ と、しみじみ 想いながら
同じ月を 見つめている、どこかの誰かのことを 想像してみた。


昨晩、月をみましたか?





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