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『 寡黙な死骸 みだらな弔い 』 [O.Y]



小川洋子 著 / 中公文庫


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息子を亡くした女が洋菓子屋を訪れ、鞄職人は心臓を採寸する。内科医の白衣から秘密がこぼれ落ち、拷問博物館でベンガル虎が息絶える―時計塔のある街にちりばめられた、密やかで残酷な弔いの儀式。清冽な迷宮を紡ぎ出す、連作短篇集。


本の題から、物語が 陰惨なかんじなのだろうか…と 想像し、購入したきり
なかなか興味が湧かなかった。

連作ということなので、今回は きちんと順に 読むことにした。

各 短編に共通しているのは、人であれ 動物であれ、何かしらの『死』と『弔い』
が描かれている。やんわり サスペンス要素も 含まれている話もあれば、小説内
小説のような構成のもあったりと、連作という 構図のおもしろさがある。

(あまり、連作ものを 読んだことがないので…)

寡黙な死骸、これは 文字のとおり理解できるのだが、みだらな弔いの
みだら、というのは 何を意味しているのかを、読了後 考えている。

私の思う 弔いというのは、厳粛に 静謐に、死者を悼むこと。なので、最も
真っ当というか、そういう印象で 安心していられたのは、『 眠りの精 』
だけだったような気がする。

11の弔いの物語、と 文庫版のあとがきにある。弔い をするということは
その人が、まだ この世に 生ある証だと ふと思った。

思い返せば、この物語の中で この世を去る人々は、ある日 孤独な状態で
発見されたりと、当然といえば そうだが、皆 多くを 語らずして、寡黙な死骸
となってしまっているのだ。

(死骸、という言葉は、その対象へ あまりに冷めた響きな気がして
切ないのだが…)

淫ら、という表記がされていないところに、性的な 意味合いとして
直結させて いないように思えるので、この みだら といのは、ダークな 感情や
故人に 残された後も 続く人生やら、そういう 生きているからこその、
あらゆる生々しさのことを、指しているのではないか… とも 感じた。

(もしかしたら、感覚的な 響きで、選ばれた言葉かも しれないですしね)


グロテスクな描写とうが 鮮烈なものよりも、『 老婆J 』、『 眠りの精 』
『 トマトと満月 』の三編が、とても印象に残ったのは、その物語に 共通して
登場する人物の、人生が 何だか切なく 思えたからだろうか。

私は、『 眠りの精 』という一編が、すごくすきだ。

カポーティの 『 夜の樹 』と、少し シチュエーションや、雰囲気が
似ているから 惹かれたというのも あるけれど、哀しみの中に優しさも 含まれ
ているあたりや、また全体の情景が 美しいところが、いいなあと。

この話の中にでてくる、ブラームスの 眠りの精 という曲を聴いてみたが、
きよらかな印象をうける、きれいな曲だった。


小川さんの本を読んでいると、(短編にその傾向がつよいかも)物語よりも
一つの場面に、絵の構図として↓ 描いたら、興味ぶかそうだなぁと
思うことが多い。 たとえば

傾斜のある丘で、たわわに実るキーウイが 風にあおられている風景。
路上に 果てしなく広がる、真っ赤な トマト。

瀟洒な邸宅の中庭で、息絶えるベンガル虎。
丘の斜面に放置され、薄汚れているだろう 冷蔵庫のやま。

(だから、感想を 書こうとすると、何だか むずかしいのだ)


これは、私の感覚なのだが

エドワード・ホッパーの画から、伝わってくるものと すこし
似ている気がした。

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構図の中の人々は、会話をしているようにも見えるけど、でも実は
ただ そこに 配置されているだけのようにも見える

そういう 独特の静けさと、人がいるのに どことなく 無機質さを感じさせる
あたりが、重なったのかもしれない。

関係ないが、ホッパー氏の画集でも 借りてこようかな。







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