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『 鍵のかかった部屋 』 [本 & 書評]



ポール・オースター 著 / 柴田元幸 訳 ,白水社







紹介文
幼なじみの ファンショーが、美しい妻と 小説の原稿を 残して失踪した。 不思議な 雰囲気をたたえた この小説の出版に 協力するうちに、「僕」は残された妻ソフィーを 愛するようになる。 だがある日、「僕」のもとに ファンショーから一通の手紙が届く。



ミステリーとして読むと、その結末は、すっきりしたものではなく
まるで、渦潮に 呑み込まれてしまったような 感覚と、似ている。

しかし、自己(私)と 他者 についての物語、という視点で 捉えると
なかなか 興味深い記述があり、いろいろ 考えることも 多かった。

読み 始めた時から、主人公と 同様に、ファンショーの影を追う こととなる。
(川上さんの 『 真鶴 』でも そうだったが、行方不明 となっている礼
(主人公の夫)の存在が、いないのに 常に在る、状態だった。)その影は
目の前にいる人々を 差置いて、 際立つのだから ふしぎである。


ファンショー という存在は、誰かが創作したもの、あるいは、他者 という
意でも 通ずるように、その他の事柄にも、置きかえられるのでしょう。

この本は、物語を 愉しむというよりは、書き手が抱える、様々な 孤独を
延々と 説明されてゆくような 印象がある。訳者によると、その 書くという
孤独に、オースターが 惹かれている とあった。 

そもそも、私がこの本に 興味がわいたのも、書く行為とは どういうことか?
と、いつも 知りたいと思う 気持ちがあったからで、書くという事の、それは
ほんの 側面かもしれないけれど、そういうのを、少し 垣間 見られたような
気もする。

他に、類似の二作(ガラスの街、幽霊たち)もあり、それらも 読みたいが
少し 間を 空けてからにしよう。
こういう テーマは、多少なりとも、閉塞感に 支配されますからね。


書くことも、読むことも、アプローチが 違うだけで、追う対象は同じ。
それらに 共通しているのは、それをする ことによって、私という自己の壁が
崩され、私ではない 他者へと 向かう行為。

だけれども、追っているはずの影は、自分の中から 産出されている、という
なんとも 不明瞭な、不可解さ。
この感覚が、冒頭で 書いた、渦潮に呑み込まれる、あれです。

柴田さん によりますと
(翻訳することも、読む、の同義と考えてさしつかえない、とあってから
下記に つづきます)

われわれも また、読むことに よって、「そこにいて、そこにいない他人」 を呼び起す。書くことを 通し、読むことを通して、人はたえず 自らの幽霊を 産出し、自らを 他者の幽霊に 仕立て上げている。 228頁


それは何も、書く読むに 限らず、誰かを想ったり 追ったりする事だって
結局は 自分の中の、その人の像でしかなかったり…。こうして書いていると
もう きりがないので やめます:)


さいごに、特に 印象的だったところを 抜粋…

おそらく われわれは 自分自身のために 存在しているのだろうし、ときには 自分が誰なのか、一瞬 垣間見えることさえある。 だが 結局のところ 何ひとつ 確信できはしない。
 
人生が進んでゆくにつれて、われわれは 自分自身にとって ますます不透明になってゆく。  自分という 存在が いかに一貫性を 欠いているか、ますます痛切に 思い知るのだ。人と 人とを隔てる壁を 乗り越え、他人の中に入っていける人間など いはしない。 だが それは単に、自分自身に 到達できる人間など いないからなのだ。



図書館から、借りること 数回。

集中したり、できなかったりで なかなか 読了できず、けど結末も 気になる
からと また借りる、このくり返し。


私も、ようやく、この本の 影から 解放されました。( ´ー`)







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