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愛の続き [本 & 書評]





原題〈ENDURING LOVE〉 イアン・マキューアン 著

小山太一 訳 / 新潮文庫



紹介文

科学ジャーナリストの 「ぼく」は、英文学者の恋人と ピクニックにでかけ、気球の事故に 遭遇する。 一人の男が墜落死し、その現場で「ぼく」は 奇妙な青年パリーに出会う。 事件後のある夜、パリーが電話をしてくる。 「あなたはぼくを愛している」と。 それから彼は 「ぼく」に執拗に つきまとい始める。狂気と妄想が 織りなす奇妙で 不思議な愛のかたち を描いた、ブッカー賞作家の 最高傑作。




この本は(巻末の付録を含めて)、ド・クレランボー症候群について
知ることが できました。
 
付録にある内容は 多岐にわたり、要約しずらいので、どういった
症状なのかを、付録より 一部抜粋します。



純粋症例における 発症前の人格を 多数調査した結果、マレンとパセは要約として 「他人から孤立した、社会に適応できない人格。 その原因は、感受性の強さ、疑い深さ、傲慢さなど。 そうした人間は 社会的に空洞の生活を 送っているとして よい場合が多い(・・・・) 人間との関係を 一方で求めつつ、性的・感情的に拒絶されること・親密になることを 怖れている」 としている。



P(実際の発症者)は 別の人間R(被害者)と 愛を交わしているという 妄想的確信を抱いており、先に恋に落ちて 恋を仕掛けてきたのは Rであるとしている。 発症は突然である。 PはRの 敵対的な行動に 理由づけができ、症状は長期にわたっている。 Pには幻覚や 知覚欠陥はない。



そして、ストーキング等の 迷惑行為、最悪の場合、その 怒りの矛先は
暴力や 殺人事件などに、向うこともあるようです。

当人には、(対象者へ)想いを抱く、明確な きっかけがあるのでしょうか。
読後 説明をみても、そうした理由さえ、不明確なのでは? と考えた。

なので、謎めいていて、ただゝ何故なのか、と疑問にかんじました。


ストーリーは、実際の症例に基づいたものだったようで、"ノンフィクション
を元に 構成された フィクションです" といった、分かりづらい 説明文が
当てはまる 内容です。
 
小説の形式をとっていますが、一つの事件の背景としても、捉えられる
ような 気がする。(でも、付録自体も 『小説の一部』、かもしれない)

小説についてですが、ストーリー性があり、場面変化も多くて、映画で
よくありそうな 雰囲気と、似ているな と思った。


ド・クレランボー症候群とは、何も考えず愛に我が身をゆだねることが 正気であるような 明るい恋人たちの世界を映し出し パロディ化する 暗い歪んだ鏡なのだ。


という文が あるのですが、著者の この見解に対し、惹きつけられ
それについて、しばらく考えていた。

『 何も考えずに 愛に我が身を ゆだねることが 正気であるような 』

という表現ですが、これドキっとします。 愛はときに 狂気になるし、
愛の種類の奥行きは、かなり深い。


恐怖が 入り混じってきたら、すでに 愛のカテゴリーから、漏れている
ように 思いますが、そういった
"愛" について、色々と 思いを 廻らせられる本では、ないでしょうか。
 

"無償の愛" という言葉が わざわざあるという事は、"愛" 一文字には
その 狂気めいた思いも、含まれていたりして。
それはさておき、文字にすると、なんて味気ない 言葉なんだろ。


主人公 ジョーの職業は、科学ジャーナリトです。

得体も知れず 根拠もみあたらない、強力な妄想愛の反対に 位置する
根拠や 証明のある、『科学』という存在。

それを だす事によって、両者が、くっきりと 浮き彫りにされているように
思えた。 その対比が、印象を、より つよくしているのかも。


心を、科学で 解き明かそうとしている 心理学には、なんだか不思議な
矛盾を 感じますが、それは、まだまだ 発展途上の 学問だそうですね。

(矛盾というか、最も 複雑多様で、実態すら捉えられない心を、
科学的に、系統立てていこう としている事に対して)



エジソンが、目には見えない音を 捉えようとした様に、心理学にも
そういった 出発点があったから、学問として、着々と基盤を 固めつつ
あるのでしょうね。

心も、結局は、脳科学の領域に なるのか? 分からなくなってきた…。


原作の映画化 『Jの悲劇』は、俳優さんの演技を 観たいです。










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